226人の画家が描いた女性シュジー・ソリドール


かのパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラック、ラウル・デュフィに藤田嗣治、モイズ・キスリングにヴァン・ドンゲン、マリー・ローランサンやジャン・コクトー・・・・

ここに列挙した錚々たる面々は、当店が作品をお取り扱いする巨匠画家たち・・・・
でもあるのですが、本日の答えはそうではありません。

彼らはみな、ある女性の肖像画を制作した画家たちです。
描かれた女性の名は、シュジー・ソリドール(Suzy Solidor 1900-1983)。
1920年代を代表する伝説的なシャンソン歌手であると同時に、多くの芸術家が集った当時最先端のキャバレーを経営した人物です。

サン・マロに建つソリドール塔

 

フランス・ブルターニュ地方の田舎町サン・マロで私生児として生まれ育ったシュジーは、恵まれたプロポーションを活かすべくモデルになる夢を抱き第一次世界大戦後、狂騒の時代のパリにやってきました。
婚外子のため持てなかった実父の姓に代わり、故郷の町に建つ海辺の塔 Solidor(Soleil d’or=黄金の太陽、の意)という苗字をたずさえて。
強い夢と希望とともに、幸運も持ち合わせていたシュジー。


最初に働き口を見つけた骨董屋の女主人イヴォンヌは、当時サントノレ通りに店を構えていた教養の高い美術商で、文化人や芸術家との人脈も広く、シュジーはイヴォンヌを通して彼らと交流。
藤田嗣治やジャン・コクトーらと親しく付き合うようになったのがきっかけで、彼らに肖像画を描いてもらうようになりました。

同一人物を描いた同じ題材の肖像画といえども、絵筆を握る側の画風や心境、あるいはシュジーとの関係により出来上がる作品は千差万別。
きっとシュジーも仕上がりを楽しみながら、モデルをしていたことでしょう。

そして画家の前でポーズをとるのと同じくらい彼女が愛していたものが、シャンソンでした。
時折シュジーが友人たちの前で披露していたハスキーな歌声は多くの人を虜にし、やがて、プロのシャンソン歌手としてデビューするまでに。
1933年にはキャバレー「ラ・ヴィ・パリジェンヌ」を開店させ、自ら毎夜舞台に立ちました。
もちろん、店内に飾られた自身の肖像画に囲まれながら・・・

藤田嗣治作 レンピッカ作 キスリング作

シャンソンだけでなく、ジャズやラテンアメリカ音楽などを取り入れながらの新しいパフォーマンスはバイセクシャルであった彼女の中性的な魅力と相まって高い評判を呼び、彼女のキャバレーは1930-40年代にその人気が頂点に達します。
この間にも多くの画家が彼女を描き続け、店内は徐々にシュジーの肖像画で埋め尽くされていきました。

第二次世界大戦でナチスがパリを掌握した際にもシュジーは愛するキャバレーの営業を続けましたが、ドイツ人将校やフランス知識人、イギリス諜報員らが訪れ情報交換・共有の場と化したため、戦後ナチス協力への疑いをかけられパリを追放されることに。

南仏オー・ド・カーニュに開店したシュジーのキャバレー

しかし、パリを追われたシュジーは、移住した南仏の小さな町で立ち上がります。
栄光に満ちた思い出の地パリと同じスタイルのキャバレーを開き、再び歌い始めました。
シュジーの特長ある低音の歌声は戦時後の辛い体験と重なってさらに厚みをまし、いちだんと多くの人の琴線に触れたことでしょう。
壁や天井に飾られた肖像画の多さも、彼女の年齢と経験の豊富さを物語っているようです。 

その後も精力的な活動を続け、晩年を迎えた1973年。
シュジーはある大きな決心をします。
それは、それまで描かれてきた200点を超える肖像画から選び抜いた、お気に入りの40点をすべてオー・ド・カーニュ市へ寄贈すること。
これらは市内に建つグリマルディ城の一室で、すべてを一緒に展示することを条件に譲られました。
(他の作品は残念ながら、シュジーの死後オークションなどで売却されてしまったそうです)

40点の作品は約束通り、現在もこの小さなお城の一角でひっそりと一般公開されています。
美しい肖像画に囲まれたこの場はさながら、在りし日の彼女の輝きを永遠にとどめるキャバレーのようで、耳を澄ませば、彼女の太く力強いシャンソンが流れてくるようです。

(R・K)