高階秀爾先生による「中村屋サロン美術館」開館記念講演

こんにちは。
ブログをお読みいただきありがとうございます。

本日は少し趣向を変えて、日本のとある老舗店の話題です。

雑踏と喧騒の新宿駅。
溢れかえる人の波をかき分けて東口を出ると見えてくるのが「新宿中村屋本店」。
1901年に東京・本郷で創業した中村屋は、1909年に新宿に移転し、以来、明治・大正・昭和・平成の長きに渡り同地で発展してきました。
移転当時の新宿はまだ場末の雰囲気が漂う鄙びた土地。
今のような繁華街の賑わいを見せるずっとずっと前から、中村屋は同じ場所で変わらぬ味を提供してきました。

そして創業から113年目の今年、老朽化した本店の建物を建て替えるにあたりビルの3階に「中村屋サロン美術館」を開設。

先日、美術館開館を祝し記念講演会が行われ、西洋美術史界の重鎮・高階秀爾先生が中村屋の歴史を丁寧に解説してくださいました。
高階先生は新宿区の名誉区民でもあるそうですよ。


さて、そもそも何故、中華まんやクリームパンで有名な中村屋が「サロン」と呼ばれているのでしょうか?

中村屋は中華まんやクリームパン、純インド式カリーなど当時まだ珍しかった食べ物の販売が本業ですが、創業者である相馬愛蔵・黒光(こっこう)夫妻は芸術への深い造詣があり、そうした相馬夫妻を慕って新宿中村屋本店に出入りするようになった若き芸術家達へ惜しみない支援をしました。
その様子が、知識人が集まって議論を交わしたヨーロッパのサロンに例えられ、「中村屋サロン」と呼ばれるようになったのです。

夫妻が支援した芸術家は、愛蔵と同郷であった彫刻家・荻原碌山や中村彝、高村光太郎ら芸術家の他にも、インド独立運動家やロシアの全盲詩人など多彩な顔ぶれ。
彼らは夫妻の支援の元に中村屋を交流の場としてそれぞれの活動を展開していきました。
中村屋と関わりを持った多くが近代文学や芸術、文化に大きな影響を与えています。

この中村屋サロンの歴史は、日本史や美術の教科書などに取り上げられるほどに著名ではありませんが、中村屋サロンを舞台に数多くの作品が生まれ、芸術家が互いに影響を受けあいながら一時代を築いていったのだと今回の講演会を通して知ることができました。

パリのカフェに集まるピカソ(右)と芸術家たち

中村屋サロンに芸術家が集まっていたちょうど同じ頃、フランス・パリのモンマルトルやモンパルナスでも同じように芸術家や文化人がカフェや安アトリエに集まり、きっと毎晩のように芸術談義に花を咲かせていたのでしょう。
一体どんなことを話し合っていたのか、何だか当時にタイムスリップして議論に参加してみたくなりますね!


(R・K)