日の丸を背負って世界に挑戦!近代日本の経済発展を象徴するオールドノリタケの歴史

こんにちは。
いつもブログをお読みいただきありがとうございます。

“韓流”という言葉がブームになって久しい昨今。
たくさんのドラマや映画が日々配信されていますが、イ・ビョンホンが主演を務めた「ミスター・サンシャイン」という歴史作品をご存知ですか?
舞台は19世紀後半の李氏朝鮮。

当時は、イギリスが清国に開国と香港割譲を求めて勃発したアヘン戦争(1840年)や日本への黒船の来航(1853年)、アメリカ帆船が朝鮮への上陸を試みたシャーマン号事件(1866年)など、貿易利権を求める欧米列強によるアジア諸国への軍事的威圧が高まっていた時代です。

 

恐ろしい大国たちの強硬な開国要求に幕府や皇帝の権威が揺らぐ一方で、知識人らによる西洋文化受容の姿勢や近代化を訴える声が徐々に大きくなっていました。
「ミスター・サンシャイン」ではそのような朝鮮の開化期に、雇い主に追われてアメリカに渡った奴婢の子供が、その後米軍将校となり復讐のため朝鮮に戻ってくるという激動のストーリーを描いています。

三代歌川広重《横浜波止場ヨリ海岸通異人館之真図》神奈川県立歴史博物館蔵 image from https://ch.kanagawa-museum.jp/exhibition/3754

まさしく同じ時代の日本では、1854年の開国を契機に西洋から次々と文物や習慣、技術が流入。
服装や食べ物などを始め、庶民の生活が少しずつ変化していました。

森村市左衛門(右)と弟の森村豊(左) 松本茂「森村市左衛門と教育活動」『大倉山論集』第69輯(2023年)より引用

そうした近代化の黎明期を直接肌で感じ、目の当たりにしたであろう人物がいます。
名は「森村市左衛門」。
のちにノリタケやTOTO、日本ガイシなどを創業し幅広い分野で活躍した実業家です。
江戸・京橋で1839年に御用商人の長男として誕生した市左衛門は、やがて家業を引き継ぎ、主に武具や袋物を各藩に納入する仕事をしていました。
しかし、横浜港に続々と集まる舶来品に触れる中で次第に「貿易商」を始めたいという夢を抱くようになります。

幕末に行われた貿易取引のおよそ80%が横浜港に集中していたそうで、新しい時代の流れを感じる活気と喧騒にあふれた港町だったことが伺えますね。
のちに市左衛門にとって重要なビジネスパートナーとなる絵草紙屋の息子・大倉孫兵衛ともこの横浜港で出会ったと言われています。
しかし、こうした諸外国との貿易で日本が資本主義的経済への変革期を迎える反面、不平等条約の影響から国内にある金貨が大量に流出するという由々しき事態が発生。
市左衛門はいち早くその状況を憂慮し、解決の手立てを模索していました。

また同じ頃。
日本の近代化に尽力した啓蒙思想家・福沢諭吉は、江戸中津藩の屋敷内に創設した蘭学塾(のちの慶應義塾)において、意欲ある若者たちに西洋の学術や文化を説いていました。
市左衛門は、商人として中津藩へ出入りをするうちに、この福澤諭吉を知ることとなり、日本に不利益な貿易の実態を相談します。
すると福澤は、「海外に一度流出した金は輸出貿易で直接取り戻すしかない」と助言。
市左衛門はますます貿易商への夢を強めていきました。

モリムラ・ブラザーズ
image from: https://www.morimura.co.jp

さて、市左衛門には15歳年の離れた異母弟の豊がいました。
豊と二人三脚で貿易事業を始めたいと考えた市左衛門は、豊に実務面を任せるべく福澤が開校した慶應義塾で英語と簿記を学ばせて、1876年に東京・銀座に輸出商社「森村組」を開業。
豊は同年NYに渡ると、日本製雑貨を扱う「日の出商会」を佐藤百太郎らとともに設立。
その一角で、市左衛門が仕入れた美術工芸品や骨董品を販売する輸出業をスタートしました。
市左衛門37歳、豊22歳の時です。
事業に将来性を感じた森村兄弟は2年後に独立し、「モリムラ・ブラザーズ」社をNYで設立。
福澤の勧めで新たに入社した村井保固などの活躍により業績は目覚ましく伸びていきました。

当時のアメリカはいわゆる「The Gilded Age」と呼ばれた時代(1870年頃~1900年頃)。
南北戦争後の急速な資本主義社会の発展により金銭などの物質的価値ばかりが崇拝された、本質的な豊かさが備わらない経済成長の過渡期を表します。

当時の社交界の様子
image from: https://flaglermuseum.org/history/gilded-age

「金メッキ時代」とも揶揄される言葉ですが、きらびやかな外見が特に好まれるこうした風潮に商機を感じた市左衛門は、彼らの嗜好に合う花瓶や飾り皿などの装飾品を自社企画で開発・輸出。
「金盛り」や「盛り上げ」など、日本の職人たちによる繊細な技法が施されたゴージャスな「ファンシーウェア」シリーズがアメリカで爆発的にヒットしました。

また、デザインへの創意工夫も求められる中で、古くから付き合いのある絵草紙屋の大倉孫兵衛が森村組に参画。
芸術的感性の優れた大倉は、海外視察を重ねて洋風の絵付けデザインや技術を研究。
現地顧客のニーズに合う商品開発と森村組の発展に大きく貢献しました。
日本では、絵付け工場や窯元との専属契約を行なうなど陶磁器の輸出商社として森村組は経営規模を徐々に拡大し、1892年には陶磁器の名産地が集う名古屋に営業所を構えました。

1889年パリ万博の陶磁器ギャラリーの様子
image from: https://www.galerie-artculture6.com/

森村組のさらなる飛躍につながった重要な出来事があります。
それは、1889年パリ万博と1893年シカゴ万博への視察。
そこに集まったこの上なく美しい欧州諸国の白色磁器に感嘆した市左衛門らは、NYの百貨店店主からの勧めもあり、欧州に引けを取らない【白色磁器のディナーウェア】の開発を決断しました。

しかし、それまでの仕入れ先であった瀬戸の窯元で扱う生地は灰色。
したがって焼成後の製品も灰色味を帯びていました。

そこで、まずは白色磁器に必要な国内産の生地原料の研究を始めましたが、なかなか期待通りの色を生み出せません。
また、自然な色味やそれぞれの形状が微妙に異なるいびつさに情緒を感じる和食器と違い、光輝く純白度や寸分狂わぬ均一性を求める洋食器との美的感覚の違いにも悩まされることとなりました。

試行錯誤する中、イギリスのローゼンフェルド社から金盛り技法を取得したいとの依頼があります。
この申し出を快く引き受けた森村組の厚意に恩義を感じた彼らは、その返礼にと日本の原料を工場で分析。
その結果、カオリンを主成分に含む「天草陶石」が白色磁器の実現に一番有効であると判明しました。

その後も地道な研究を重ね、ようやく「日陶3・3」と呼ばれる白色硬質磁器の製造に必要な原料組成が発見されたことで、洋食器の国内生産化への目途が立つと、自社工場の建設に先立ち1904年に「日本陶器合名会社」が設立されました。

さらにディナーセットの実用化に向け、透明度を上げるためにタルクを混ぜるなど生地を改善し、ようやく1914年日本初のディナーセット「SEDAN(セダン)」が誕生しました。

日本初のディナーセット「SEDAN(セダン)」(1914年)
image from:https://tableware.noritake.co.jp/

白色磁器の開発を決意してから、約20年の年月が過ぎていました。
初年度にわずか20セットだった売上は、4年後になんと40,000セットを受注。
名実ともに名陶の仲間入りを果たすこととなったのです。

image from: https://senoo-shouji.com/

このSEDANシリーズのバックスタンプを見てみましょう。
中央のMは森村の頭文字、その周囲を森村家の家紋である下り藤を逆さにした上り藤が囲み、下部にはHAND PAINTEDとNIPPONが刻印されています。
上部に書かれたNORITAKEは「則武」という町名で、1904年以降本社所在地(現在の愛知県名古屋市西区則武新町)がある場所です。
日本陶器合名会社の製品が「ノリタケ」ブランドと呼ばれるようになった所以ですね。

その後、国内外でのディナーセットの好調や第一次世界大戦による戦争景気などもあり、堅調に事業は拡大。
1920年代、1930年代は世界情勢に影響した浮き沈みがありながらもモリムラドールと呼ばれる人形玩具や和食器、火鉢、電灯笠など進取性に富んだアイテムを世界に発信し、輸出先はアメリカのみならず、インド・インドネシア及び中近東へも広がりました。

1920-1930年代に展開された多彩な商品たち
images from: 木村一彦・葵航太郎著「オールドノリタケ コレクターズガイド」トンボ出版 1998年

しかし、第二次世界大戦の激化により日米開戦が差し迫るとやむを得ずすべての輸出事業は閉鎖へと追い込まれ、モリムラ・ブラザーズ社は1941年にNYでの歴史に幕を閉じました。
1876年にたった二人の兄弟が東京で始めた小さなビジネスが海を越え、66年に渡る営業を続けられたのは、安定した経営基盤に加えて、福利厚生にも力を入れた働きやすい環境が整えられていたのでしょう。
閉鎖当時50人以上のアメリカ人従業員がいたそうで、戦争がなければさらなる高みを目指していた企業だと思うと非常に惜しまれますね。
こうしてアメリカからの撤退を余儀なくされた日本陶器合名会社は、戦時下で工業用研削砥石などの軍需製造に従事しました。 

しかし、1945年8月に太平洋戦争が終焉すると、主に進駐軍を対象にした磁器生産事業を少しずつ再開。
戦後の経済復興をいち早く支えた重要な国内産業の一つとなりました。

OCCUPIED JAPAN」のディナー皿
image from: Suzassippi’s Lottabusha County Chronicles

なお、日本は敗戦国としてGHQの占領下にあったため、製造を再開した1947年頃から1952年までの製品には窯印の下部に「OCCUPIED JAPAN(オキュパイド・ジャパン)」が加えられました。
(「OCCUPIED JAPAN」について詳しくはこちら

未来への希望を捨てずに常に前向きに歩み続けた「ノリタケ」ブランド。
海外貿易を切り拓いたパイオニアとしての誇りを胸に、今日も光り輝く陶磁器を世に送り出しています。

(R・B)

【筆者プロフィール】 東京都出身。都内の大学を卒業後、ハワイ大学へ4年間留学。歴史学部卒業。その後、美術史に興味を持ちハワイ州ホノルル美術館でのガイド経験や国立西洋美術館でのインターンを経て、2012年学芸員資格を取得。翌年よりアトリエ・ブランカに入社、海外仕入補佐、作品解説等を担当する傍ら、スタッフブログを担当。2018年に結婚を機に一時アメリカへ移住。子育て期間を経て2024年12月よりブログを再開。

(参考文献)

https://www.morimura.co.jp/history/history_01.html

https://www.morimura.co.jp/history/colum/index.html

https://tableware.noritake.co.jp/f/about-noritake/history/

「オールドノリタケ コレクターズガイド」木村一彦・葵航太郎著 トンボ出版 1998年

https://nestnestnest.blogspot.com/2016/08/why-in-design-column-all-about-our.html

https://www.invaluable.com/blog/noritake-china-value/

https://gotheborg.com/marks/noritake.shtml

https://www.judyschwartz.com/wp-content/uploads/2020/09/NoritakeArtDeco_AVisionofDeco_copy.pdf

https://www.kirin.co.jp/alcohol/beer/daigaku/HST/hst/no155/

https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/around-yukichi-fukuzawa/201806-1.html

https://japan-porcelain.com/intro/backstamps/