長谷川潔と斎藤豊作 ~戦時下のフランスを生き抜いて~

image from: https://www.caue72-collectiviteslocales.com/fiche-annuaire/luche-pringe/

こんにちは。
ブログをお読みいただきありがとうございます。 

フランス北西部サルト県にあるリュシェ=プランジェ(Luché-Pringé)。
美しくのどかな田園風景が広がる静かな村です。

長谷川潔 「窓からの眺め / シャトー・ド・ヴェヌヴェルの窓」
1941年 ビュラン

この画像は、その静かな村の一角にあるヴェヌヴェル(Venevelles)の景色。
放たれた窓から時折通り抜ける心地よい風が、午後のまどろみへといざなうような、そんな平穏に満ちた眺めです。


日本から遠く離れた異国の地で、このヴェヌヴェルの牧歌的な情景を特別愛した二人の芸術家がいました。
長谷川潔と斎藤豊作です。
二人の人生ははどのように紡がれ、いかにして交錯していったのでしょうか。

(左)長谷川潔 image from: https://inventory.yokohama.art.museum/
(右)斎藤豊作 image from: https://toyosakusaito.weebly.com/

5人姉弟の長男として1891年に誕生した長谷川潔。
明治経済界の重鎮である渋沢栄一からその資質を認められた優秀な銀行家の父を持ち、幼い頃から論語や書画、日本画などに親しんで育ちました。
その後、父は第一国立銀行大阪支店長に抜擢され、家族で大阪へと移住。

しかし、そのわずか2年後に父・一彦は死去。
長谷川は長男として一家を支えようと、親戚らに勧められた外交官の道を一度は目指しますが、元来病弱な体質であったため、好きな美術の道へと進むことになりました。
もちろん、本人の努力と心意気、そしてなにより才能ありきのことですが、父親の遺した遺産のおかげもあり長谷川が自らの意志を貫き芸術の世界へ邁進できたことは幸運だったと言えましょう。

この辺りは、森鴎外の後任として軍医総監となった父・嗣章を持つ藤田嗣治の家庭環境にやや似ています。
画家を志したいという夢を藤田が手紙で伝えたところ、父は何も言わずに画材を購入するための大金を渡したと言われています。
財界や医学界など社会的権威のある父親からの経済的援助を足がかりに、二人の才能は開花していったのですね。

芸術家を夢見た長谷川は20歳の時に黒田清輝が設立した葵橋洋画研究所に入門。
また、同時期に岡田三郎助や藤島武二に師事し油絵の手ほどきを受けました。
その後バーナード・リーチからエッチング技法を学んだ縁で版画制作に傾倒すると、フランスから機械や道具一式を取り寄せるほど熱心に研究を始めました。

さらに、『聖盃』や『水甕』などの文芸雑誌への装幀制作を通じて多くの文人らと親交を結び、この時期はルドンやブレイクといった象徴主義の西洋画家を敬愛。
芸術仲間たちと日夜談義する中で、長谷川は己の芸術を極めるためにはフランスで修行する必要性があることを痛感します。
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しかし、時は1910年代半ば。
第一次世界大戦最中での欧州への渡航は無論ままならず、1918年11月の大戦終結を待たなければなりませんでした。
戦争が終わるやいなや、長谷川はパリに向けて旅立ち、1919年4月に船路でフランスのル・アーヴル港に到着。
憧れのパリには翌日辿り着きましたが、長旅の疲れで体調の優れなかった長谷川は静養のため南仏に拠点を移し、プロヴァンス地方やブルターニュ地方、イタリアなどを旅行しながら版画技法の研鑽を積み、穏やかな気候の地中海沿岸におよそ3年間滞在しました。

この3年間の間に起こった大きな出会い。
それは1921年にモンマルトルの画材屋でラウル・デュフィと知己を得たこと。

独立画家版画家協会展1929年目録
image from: https://hanga-museum.jp/

長谷川の版画への情熱を知ったデュフィは<独立画家版画家協会>への加入を勧めます。
同協会はピカソやマティス、シャガール、ローランサンなども所属していた権威ある団体で、彼らは絵画制作の傍ら、版画技法の研究や制作も積極的に行い、版画の地位向上に大きく貢献。
リトグラフを始めとした多彩な版画芸術がこの時期に華開きました。

長谷川は以前から研究していた古典的銅版画技法であるメゾチント(仏名:マニエール・ノワール)を応用し、下地となる版に上下斜めに交差する微細な線を刻む独自の技法を考案。
これにより、長谷川の代名詞ともいえる漆黒の陰影に浮かぶ幻想的な作品世界が生まれたのです。

こうした知遇や版画への世間的評価の高まりも相まって、長谷川は1920年代半ばから1930年代にかけて積極的に作品を発表しました。
現在の上皇陛下の母方の大叔父にあたる東久邇宮殿下が滞仏中に長谷川の個展に来観され、作品を買い上げられたというエピソードも残っています。

さらに長谷川は、日本近代版画をヨーロッパで広める機会を模索し、展覧会開催を立案。
1931年に発足した日本版画協会会長の岡田三郎助とフランス機関との橋渡しとして尽力しました。
展覧会は1934年パリでの開催を皮切りに、以降ヨーロッパやアメリカ各地を巡回するなど日本版画の海外への発信に大きく貢献しました。

しかし、第二次世界大戦の足音が着実にヨーロッパ全土へ広がり始め、国際的緊張が高まってきていたのもこの時代です。
ついに1939年9月、フランス全土で動員が告示されると、長谷川はフランス北西部ヴェヌヴェルに身を潜めることを決断。
その疎開先となったのが、斎藤豊作の自宅だったのです。

一方、この斎藤豊作とはどのような人物だったのでしょう。
彼自身は芸術史において、多くを知られている画家ではないかもしれません。
しかし、広い人脈を活かして多数の芸術家らと交わり、日仏で多彩な活動を行なった人物として後世に伝えれらています。

1880年に現在の埼玉県越谷市で生まれた斎藤は、地元の尋常小学校から高等小学校に進み、開成高校の前身である共立学校を経て、東京美術学校で西洋画を専攻しました。
その後、この時代の多くの同胞たちと同様フランスへの留学を夢見て1906年に渡仏。
パリ14区の美術学校グランド・ショミエールで有島生馬や湯浅一郎らと一緒に印象主義や点描画を学んだそうです。

また、ブルターニュ地方への旅行でポンタヴェンに滞在した際に、同じく留学中であった梅原龍三郎と出会い意気投合。
留学から帰国後に、文展に対抗して結成された<二科会>では、ともに創立メンバーに加わるなど生涯にわたり交流を続けました。

斎藤豊作「夕映の流」(1913)
国立美術館所蔵作品検索より引用

斎藤は精力的に種々の展覧会にも出品。
1913年に制作した「夕映の流れ」は現在、東京国立近代美術館に収蔵されています。

こうして日本での活動を再開する中で、斎藤にある転機が訪れます。
それは来日していた3歳年下の女流画家カミーユ・サランソンとの出会い。
二人はその後結婚し、1920年に渡仏。
パリに居を構えて新生活を始めました。

この頃―

児島虎次郎 image from: https://www.city.takahashi.lg.jp/
大原孫三郎 image from: https://www.okayama-kanko.jp/

画家・児島虎次郎もまた、パリに滞在していました。
彼は、膨大な西洋美術コレクションで知られる岡山県倉敷市の大原美術館創立のために奔走した人物としてよく知られていますね。
岡山屈指の地主であり実業家であった大原家は、前途有望な若者に金銭的援助を施す奨学金制度を創設しており、これに応募したのが元々画家志望であった児島虎次郎でした。

児島はその人柄と才覚を若き当主・孫次郎に認められ、大原家の財政支援を受けて東京美術学校へ入学。
斎藤豊作とはここで同級生として出会い、親しくなりました。
児島は美術学校を2年飛び級の優秀な成績で卒業したそうで、孫次郎に高い鑑識眼があったことが伺えますね。

児島はその後も、1908年にヨーロッパへ留学しベルギーの美術アカデミーを首席で卒業して帰国するなど、ますます熱心に美術や文化の研究に打ち込みました。
そうした背景のもとで、彼はいつからか「西洋の美術を通して日本の美術界を発展させたい」という夢を徐々に抱くようになり、1919年に二度目の留学へ赴く際に西洋美術の蒐集を孫三郎に願い出ました。
広く慈善的社会事業に取り組む大原家にとって、児島の申し出が「本当に日本社会全体の利益になるのか」と懐疑的であった孫三郎でしたが、最終的に進言を許可。
児島の先見性と孫三郎の大きな度量によって、日本で西洋美術が広く普及する礎が築かれたのでした。 

斎藤と児島がパリで再会したのはそんな折。
絵画蒐集の協力を求められた斎藤は、旧友のよしみで児島の買付を数年間手助けしました。
巨匠クロード・モネのアトリエにともに訪れ、児島はこの時にモネの名画「睡蓮」を購入。
その後も、マティスやゴーギャン、エル・グレコなど名だたる巨匠たちの作品を買い集め、大原美術館を代表する名画コレクションの形成に力を尽くしました。

しばらくの間、作品の買付や日本への発送を手助けした斎藤ですが、1926年にサルト県ヴェヌヴェルにある古城を購入すると、都会の喧騒を離れて家族で郊外の田舎へと移り住みました。

斎藤が1926年から1951年まで暮らしたヴェヌヴェル城 image from: https://www.loir-valley.com/

この地域は、スペイン貴族にルーツを持つエスパーニュ家が封建領主として収めており、斎藤が家主となったこの城は百年戦争終了後の不安定な地域情勢から彼らが身を守る要塞として建設されたもの。
その後、城は次第に要塞から瀟洒な邸宅へと役割を変え、改修や増築を繰り返して庭園や鐘塔が美しく整えられていきました。
13世紀末頃からフランス革命までおよそ300年以上にわたり所有したこの古城をエスパーニュ家が19世紀初頭に手放したのち、城主を度々変えながら、縁あって斎藤豊作が1926年に購入したのです。
何という数奇な巡り合わせでしょう。

ヴェヌヴェルの安らぎに満ちた風景とのんびりとした古城生活を深く気に入った斎藤の下には岡鹿之助や梅原龍三郎、有島生馬、中川紀元、山下新太郎ら数多くの日本人画家が訪れました。
戦災時に疎開してきた長谷川潔もまた、この地の自然に魅了された一人。
長谷川は戦争や健康への不安を抱えながらも心を鎮めて過ごし、ヴェヌヴェルを題材にした作品をのちに発表しています。

長谷川潔 「ヴェヌヴェルの丘上の古い農家」1942年 ポアント・セッシュ

斎藤と長谷川は、祖国からの帰還勧告にも関わらず、第二次世界大戦下もフランスに留まり続け、戦後は敗戦国の国民としてフランス当局に捕らえられ収容所へ連行されました。
二人の収監は一時的でしたが、斎藤はこの時に罹患した結核により、1951年に死去。
長谷川は、戦後も細く長く制作活動を続け、日仏両国で芸術文化勲章を受章するなど生涯にわたり版画芸術の発展に尽くしました。

パリではエコール・ド・パリが花咲き、その寵児と謳われた藤田嗣治がもてはやされた時代。
本日は、そうした華やかなパリ画壇のスポットライトからは距離を置き、フランスで静かにしかし太く育まれた日本人画家たちのサイドストーリーをご紹介しました。

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(R・B)

【筆者プロフィール】 東京都出身。都内の大学を卒業後、ハワイ大学へ4年間留学。歴史学部卒業。その後、美術史に興味を持ちハワイ州ホノルル美術館でのガイド経験や国立西洋美術館でのインターンを経て、2012年学芸員資格を取得。翌年よりアトリエ・ブランカに入社、海外仕入補佐、作品解説等を担当する傍ら、スタッフブログを担当。2018年に結婚を機に一時アメリカへ移住。子育て期間を経て2024年12月よりブログを再開。

(参考文献)
「藤田嗣治展―東と西を結ぶ絵画―」展覧会図録
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9970.html
https://ameblo.jp/nichizuikankei/entry-12765940049.html
https://koshigayahistory.org/314.pdf
https://hanga-museum.jp/static/files/ex514_column.pdf#
https://www.ohara.or.jp/history/history2/
https://seitar0.exblog.jp/239568700
https://www.ouest-france.fr/pays-de-la-loire/luche-pringe-72800/cette-connexion-improbable-qui-lie-ce-village-de-sarthe-au-japon-d00b82b4-0c37-11ee-8e71-2cd44afe92ef