19世紀末のパリで若い芸術家たちを支援したマダム、シャルロット・キャロン
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ピカソやユトリロが集ったシャンソン居酒屋ラパン・アジル、数多くの文化人でにぎわったカフェ・ラ・ロトンド、ルノワールの絵画で有名なダンスホール、ムーラン・ド・ラ・ギャレット・・・
パリの街角を歩けば、その昔芸術家たちが時に酒を酌み交わし、また時には仲間たちと芸術談議に花を咲かせながら、憩いの場として時を過ごしたお気に入りの場所に巡り合えます。
そんな中で本日ご紹介するのは、19世紀末、あまたの芸術家たちに愛されながらもその存在があまり世に知られていないパリの少し謎めいた食堂の話。
未亡人のマダム、シャルロット・キャロン(Charlotte Caron, 1849-1925)が経営したクレムリ(Crémerie)という名のそこは小さな下宿屋兼安食堂。
1階ではマダムの故郷であるアルザス地方の料理が格安で提供され、2階より上が下宿部屋になっていました。
時代は1800年代後半。
急速に産業化する都市文明の反動から、世紀末へ向けて混沌とした不安感・終末観が生まれ、芸術家はそうした内面的感情を表現するようになります。
象徴主義、耽美主義、ウィーン分離派を始め、ヨーロッパ全土で数々の芸術様式が絵画に限らず文学や音楽などの面で生まれました。
そんな時代の中、諸芸術運動の最も中心となっていたフランス・パリにおいて、クレムリが店を構えていたのはパリ6区のグランド・ショミエール通り13番地。
界隈にはリュクサンブール公園やカフェが建ち並び、店のはす向かいには美術学校アカデミー・コラロッシがありました。
伝統と格式を重んじる国立の美術学校エコール・デ・ボザールと違い、革新的な美術教育を推進するこのアカデミー・コラロッシは女性や外国人の学生も積極的に受け入れており、ミュシャやゴーギャン、セリュジェ、スタンラン、モディリアーニら未来の芸術家としての飛躍を夢見る、貧しいけれども若くエネルギッシュな学生たちが集っていました。
洋画家の黒田精輝も一時期このアカデミー・コラロッシで学んでいます。
muchafoundation.org.より
timelessmoon.getarchive.net より
そんな祖国を離れて異国で暮らす彼らにとって、学校から目と鼻の先に位置し、温かい食事と寝処を提供するクレムリは大きな心の拠り所であったことでしょう。
いつも明るい花柄のガウンをまとっていたというマダム・キャロンは、貧乏な学生たちのために食事代や宿賃代わりに作品を受け取ったりツケでの飲食にも寛容だったといいます。
そのため、10人も座れないほど小さなレストランであったクレムリはいつも大賑わい。
店内は、彼らの絵画で埋め尽くされていたんだとか。
また、のちにフリーメイソンに加入するなど当時神秘主義や神智学的思想に傾倒し、時に妖しく謎めいた作風を残したミュシャが、友人とともに心霊研究や降霊術をするなどオカルト的実験の場にもなったと言われています。
deliusapostle.comより
左側にクレムリ、その向かいにアカデミー・コラロッシがありました
Google Map より
もう一つ、忘れてはならないのが店舗の外装。
店の名前が刻まれた看板と、窓をはさんで飾られた2点の縦長作品の左側をミュシャが、右側を友人のポーランド人画家スレヴィンスキーが手がけました。
美しい曲線や装飾模様が用いられた外観は、アール・ヌーヴォーの幕開けを予感させますね。
この店舗外装を手がけた当時まだ無名ではあったものの、一目でミュシャの作品だとわかる独特のフォントや植物文様のデザイン。
その芸術的才能はすでに萌芽していたのですね。
その後、アール・ヌーヴォーという時代の寵児となり創り上げた優美なミュシャの世界観は、当時のデザイナーや芸術家を目指す学生たちにとって究極の憧れだったことでしょう。
その技術を惜しみなく提供しようと1902年に発行された『装飾資料集』にはミュシャが制作したアール・ヌーヴォーの基本デザインから精緻なデッサン、複雑な文様まで72点の多様な版画が収められ、その後長きにわたり芸術学校の授業でバイブルとして扱われました。
(『装飾人物集』は人物表現にフォーカスした続編)

ちなみにそののちクレムリはというと・・・店主キャロンと淡い恋仲にあったという常連客の劇作家ストリンドベリが若いノルウェー人女優ハリエット・ボッセと結婚するという知らせを受け、Caronが1902年失意のうちに売り払ってしまったと言われています。
しかし、無名時代のミュシャをいつも温かく迎えてくれ、仲間たちと寝食を共にしたクレムリはミュシャにとっては心の聖域とも呼べる特別な居場所だったことでしょう。
アトリエ・ブランカでは1902年発行の『装飾資料集』の原本を所蔵しております。
現在開催中の企画展「ミュシャとアール・ヌーヴォー~装飾美術の巨匠展~」におきまして、収蔵作品50余点をはじめ、希少な『装飾資料集』『ポスターの巨匠』ほかミュシャの稀観本多数を店内にてご覧いただけます。
美しい版画が織りなすミュシャの魅惑の世界をぜひこの機会にご堪能くださいませ。
(R・B)
(参考文献)
http://frenchfries.se/En_kort_Parispromenad.html
http://www.muchafoundation.org/about/madame-charlotte-caron Modigliani: A Life by Jeffery Meyers
Modigliani: A Life by Jeffery Meyers