デュフィのテキスタイル・デザイン
こんにちは。
ブログをお読みいただきありがとうございます。
芸術の秋も深まってまいりました。
12月15日までパナソニック汐留美術館で開催中のデュフィ展にはもう足を運ばれましたか?
来年1月25日から3月29日までは松本市美術館に巡回予定です。
もう一度という方は、冬の松本を訪れるのもまた趣がありそうですね。
本展はビアンキーニ=フェリエ社に遺されていたデュフィ作のテキスタイル・デザインに焦点をあてた内容で、当時のデザイン画や実際の絹織物が多数出品。
復刻制作された布地を用いたドレスなども沢山展示されていて、ファッションショーのような雰囲気も素敵です!
海や音楽をテーマとした軽やかで明快な絵画で知られるデュフィですが、彼のデザイナーとしての経験はその後の画風にも大きな影響を与えたと言われています。
ビアンキーニ=フェリエ社は婦人衣服と家具のための高級織物のメーカー。
1888年にアテュイエ、ビアンキーニ、フェリエの三氏によってリヨンで設立されました。
当時、この設立者三人の合計年齢はたった78歳だったと言います。
1897年にはパリ、1902年、ロンドンとブリュッセル、1909年にはニューヨークにオフィスを構え、世界市場へ製品を提供。
その製品の質と独創性のために、多数の賞を受けています(1900年のパリ万博でのグランプリなど)。
1912年、デュフィが同社の専属アートディレクターとしての契約書にサイン。
1928年までこの契約は続き、この間デュフィはおよそ4000のデザインを考案し、そのうち700が実際に採用されたとのこと。
絹織物が中心でしたが、“トワル・ド・トゥールノン”と呼ばれる木綿製品も。
デュフィが木版画として制作した作品と同じモチーフが使われていました。
そもそも、画家であるデュフィがテキスタイルの世界へ入った契機は木版画にあります。
1906年、ゴーギャンの大回顧展を観たデュフィは力強いゴーギャンの木版画に触発され、すぐに自身も木版画の工房に足を運ぶようになりました。
翌年、友人の作家フェルナン・フルレの要請を受け、詩集『骨董』の挿画となる木版画制作に取り組みます。
この時期、デュフィは中世の版画芸術にも関心を寄せ、黒と白の対比の探求による立体感の表現に成功しました。
ドイツのミュンヘンで表現主義の画家たちの木版画に興味を抱いたデュフィは1910年の初め、ミュンヘンから戻ると4点の木版画を制作します。
上でご紹介した木版画《 漁 》はその中の1点。
濃密な黒と輝きのある白が多様な描法によって配分された画面はプリミティヴな魅力に満ち、すべてのデュフィ作品の根幹である“生きることへの賛歌”の出発点とも言えるでしょう。
同年、詩人アポリネールの依頼で『動物詩集』の挿絵を手掛けることになったデュフィは約1年間の歳月を費やし、30点の木版画を完成させます。
こうして高められた木版画の技術は、新しいテキスタイルデザインの創造へとデュフィを導いていくこととなります。
その一番の立役者はファッション・デザイナーのポール・ポワレ。
コルセットから女性たちを解放した、ファッション界の王と呼ばれるポワレは『動物詩集』でデュフィの才能を見出したと言われます。
1911年に設立した “小さな工場(La petite usine)” でデュフィと布地を共同開発。
軽やかで自由な志向性を持つ二人の連携は時代を牽引していきます。
デュフィがビアンキーニ=フェリエ社に引き抜かれてからも二人の関係は続きます。
ポワレの1920年夏コレクションはデュフィデザインのファブリックのみが使用され、この時の『ガゼット・デュ・ボン・トン』にデュフィによるスケッチが掲載されています。
また、ポワレの新作ドレスを描いたクロッキーは当時のモードについての資料としても大変貴重なもの。
長年デュフィ作品をお取り扱いしてきた弊社の吉祥寺店でも、今月このフェリエ時代を大特集。
アーティスト、デザイナー、メーカーによる最高のコラボレーションをお愉しみください。
詳しくはこちら
(K・T)