サラ・ベルナールとミュシャ

こんにちは。
ブログをお読みいただきありがとうございます。

GWはいかがお過ごしでしょうか?
いよいよ平成も残すところ2日。
新しい令和の時代を目前に気が引き締まりますね。
 

昨年11月に群馬県立近代美術館にて「サラ・ベルナールの世界展」を鑑賞しました。
本展はその後、各地を巡回中。
現在は箱根ラリック美術館、その後、いわき、横須賀とめぐり、今年12月から来年1月には渋谷の松濤美術館で見られます。
(チラシ画像クリックで公式ページへ)
ぜひ訪れていただきたい展覧会です!


フランスの大女優サラ・ベルナールの名は演劇ファンの方、またミュシャをお好きな方であればよくご存知ですね。

国立音楽演劇学院を卒業後、1862年コメディー・フランセーズに入団しますが、トラブルがあり解雇。
その後、国立オデオン座で才能を開花させ、ヴィクトル・ユゴーの「リュイ・ブラス」の大成功を機にコメディー・フランセーズに戻ります。
1880年には自ら劇団を立ち上げ、アメリカ、ヨーロッパを公演。
各地で賞賛を受け、世界的な女優に。
1893年からルネサンス座の座長を務め、人気作の再演に加え、新作も次々に上演。

ミュシャ ジスモンダ リトグラフ
「ジスモンダ」 弊社所蔵作品

そのひとつ「ジスモンダ」は、ヴィクトリアン・サルドゥ(1831-1908)がサラのために執筆した中世が舞台の物語。
初演は1894年の秋。

アテネの女王ジスモンダは夫亡き後、5歳の息子フランチェスコの摂政として国を治めていました。
東方から来たザッカリア皇子はジスモンダの愛息を亡き者にして国を乗っ取ろうと考え、腹心の家臣に命じ、フランチェスコを虎の住処に追いやります。
自分の身を案じ、誰も動けない中、ある男が見事に救出。

ジスモンダは即座に息子の命の恩人と結婚することを司教に誓いますが、この男、アルメリオは平民でした。
それを理由に約束を取り消そうとするジスモンダ。

実はアルメリオは以前よりジスモンダに想いを寄せていました。
地位や領土は望まない、ただ恋人になってほしいと願うアルメリオにジスモンダも惹かれていきます。

ザッカリアが息子を殺そうとしたことを知ったジスモンダは怒りのあまり、ザッカリアを殺害。
アルメリオはその罪をかぶり、死刑を宣告されますが、本当の犯人とその理由が明かされ、無事に釈放。
こうした困難を経て、二人の愛は強固なものとなり、結婚に至ります。

 

ルメルシエ印刷工房に「ジスモンダ」の大判ポスターの発注があったのは1894年12月26日。
新年4日からの再演が急遽決定したため、元日には街に貼り出したいという依頼でした。
クリスマス休暇で誰もいない中、そこに居合わせたポスター未経験のミュシャに白羽の矢が立ちました。
ミュシャはすぐにルネサンス劇場へ出かけ、サラをスケッチします。

翌日、ミュシャが持ってきた彩色下絵を見たルメルシエは出来栄えに不満がありましたが、時間がないため、依頼主に決定をゆだねます。
28日、劇場から電話があり、サラが気に入ったのでOKという返事。

シェレやロートレックらに代表される当時のポスターは鮮やかな色彩が主流でした。
しかし、ミュシャは淡い色調で作品を完成させます。
出来上がったポスターに満足し、ミュシャの才能を見抜いたサラは専属契約を結びます。
パリ中の広告塔に貼り出されたこのポスターは熱狂的に受け入れられたため、劇場販売用に追加で刷られることとなりました。

ミュシャはポスターのみならず、舞台衣装や舞台美術のデザインも手掛けることとなります。

「サラ・ベルナールの世界展」では、ミュシャがデザインし、ルネ・ラリックが制作した百合の冠が出品されていました。
舞台「遠国の姫君」で実際に使用されたもの。
まさに息をのむ美しさで、しばらくガラスケースから離れることが出来ませんでした。

 


弊社は日本有数のミュシャ・コレクションを所蔵し、200点を超えるミュシャのオリジナル作品をお取扱いしております。
サラ・ベルナールのための大判リトグラフポスターを筆頭に、装飾パネル、挿画本、美術誌表紙、ポストカードに至るまで、ミュシャが存命中に制作したおよそ120年前の作品です。
こちらから作品をご覧いただけます。

また、軽井沢店では「ミュシャとアール・ヌーヴォーの美術展」と題しまして、ミュシャ作品を多数展示中。
新緑の軽井沢にぜひお出かけくださいませ。

いよいよ新元号の時代に入ります。
変化をおそれず、と同時に古き良き文化を受け継ぐことも大切にしたいですね。

(K・T)