ファッション・ジャーナリズムの歴史<後編>

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ブログをお読みいただきありがとうございます。

さて、今月当店で開催中の「パリ、アール・デコのファッション画展」にちなみ、ご紹介しているファッション・ジャーナリズムの歴史。

前回の前編では、定期的な出版物として最新流行文化を取り上げた先駆的雑誌『ギャルリ・デ・モード』(1778-1787年)から、非凡な編集長やイラストレーターの不足など多面的要因により、モード・ジャーナリスムが一時衰退する19世紀前半までの流れを取り上げました。(前回のブログはこちら

後半では、空白の80年の末に登場した20世紀ファッション革命と、モード・ジャーナリスム復活劇をご紹介します。
(参考文献:鹿島茂著『モダン・パリの装い』)

この復活劇が起こる背景に欠かせないのが、20世紀美術の存在。
どこか陰鬱でミステリアスな雰囲気の漂う世紀末・象徴主義美術から一転、20世紀の幕開けとともに美術界では明るい色遣いの前衛的作品が次々と発表されました。
野獣派マティスが誕生した1905年のサロン・ドートンヌや1907年に発表されたピカソの「アヴィニョンの娘たち」・・・
加えて、1909年には個性的な衣装と革新的ステージにより一世を風靡したロシアバレエ団「バレエ・リュス」の公演が行われ、若い芸術家を刺激する新しい時代の空気に溢れていたころ。

マティス「帽子の女」 ピカソ「アヴィニョンの娘たち」 バレエ・リュスの人気ダンサー ニジンスキー

こうした文化面でのアヴァンギャルドな要素が、ファッションとお互い影響を与え合わないはずがありません。

ついに、ファッション界でも新しい時代の幕開けを告げる革命が到来します。
その発端が、服飾デザイナーのポール・ポワレ(1879-1944)が1906年に発表した、女性の体を窮屈に縛りあげるコルセットを用いないゆったりとしたシルエットのドレス。

革新的なスタイルで一躍デザイン界のスーパースターになったポワレは、自身のデザインしたドレス画をまとめたお洒落なファッション・アルバムを1908年に出版。
これが、のちに続くモード・ジャーナリスム復活の礎になりました。


ポール・ポワレ(1879-1944)

貧しい布地商人の家の生まれから、ほぼ独学でファッションを学びいくつかのメゾンに勤めた後独立。
ハイ・ウエストのゆるやかなドレスやハーレム・パンツ、着物風コートなど斬新なスタイルを次々と生み出し、近代ファッションの創立者と謳われた伝説的服飾デザイナー。

ポワレ作「ペルシャ」(生地デザイン:デュフィ)

このような画期的な事件を経て、ついに1912年。
矢継ぎ早に3誌もの定期刊行ファッション雑誌が創刊されます。
モード・ジャーナリスムの完全復活です。

『モード・エ・マニエール・ドージュルデュイ』(1912-21年)
『ジュルナル・デ・ダム・エ・デ・モード』(1912-14年)
『ガゼット・デュ・ボン・トン』(1912-25年)

この3誌の共通点は、単にファッション・プレート(版画による最新流行服飾図)を収録するような前世紀ファッション雑誌の模倣ではなく、強い視覚的インパクトを伴うグラフィカルなデザイン。
そして、モード・イラストレーションと最高に相性が良く、鮮やかでヴィヴィッドな色彩が魅力の版画技法ポショワールを使用したこと。
それぞれの特徴としては、


モード・エ・マニエール・ドージュルデュイ

 

『モード・エ・マニエール・ドージュルデュイ』

その年の流行を予測した12枚のファッション・プレートを、毎年一人の画家が担当するという年1回発行の特異な刊行物。
大判で毎年限定300部のみ発行。
最高級に上質な静岡鳥の子紙を用いているため、非常に鮮やかな色彩。


ジュルナル・デ・ダム・エ・デ・モード

 

『ジュルナル・デ・ダム・エ・デ・モード」』

1789年に創刊されたモード雑誌と同じ名を冠しているためか旧版を踏襲した保守的なモード画でスタート。
しかし、他誌のアヴァンギャルドなファッション・プレートに感化され方針を転換。
第一次世界大戦勃発により廃刊となったものの、20世紀モード・ジャーナリズムにおける役割は大きい。


ガゼット・デュ・ボン・トン

また、3誌の中で最もよく知られ、20世紀最大の雑誌と称された 

『ガゼット・デュ・ボン・トン』

建築家の夢を諦めてジャーナリスムの道に進んだアルザス出身の青年リュシアン・ヴォージェルが創刊。
ファッション・プレート以外にも紙、判型、活字、テクストなどに徹底的にこだわり雑誌を芸術の領域にまで高めた高級雑誌。
1926年、現在のフランス版『VOGUE』に合併吸収された。(詳しくはこちら
その他、『フイエ・ダール』や『アール・グー・ボーテ』『ル・スーリール』など、
1910-20年代にかけてモードを扱う定期刊行物が次々と発行され、モード・ジャーナリスムは隆盛を極めました。

ところで、ピカソが「アヴィニョンの娘」を発表したころ。
パリの名門美術学校エコール・デ・ボザールでは、のちにモード・イラストレーター四天王と言われる若き学生たちが新しい時代の胎動に刺激を受けながら切磋琢磨していました。

バルビエ、ルパップ、マルタン、マルティの4人は並外れた感性と才能で個性を発揮し、20世紀初頭に起こったモード・ジャーナリスム黄金時代の立役者たちです。



ジョルジュ・バルビエ(1882-1932)

1882年ナント出身のバルビエはエコール・デ・ボザールで学んだあと各モード誌にイラストを提供。
特に、1920年代エルテとの共同作業で舞台美術を手がけたことで知られる。
オリエンタリズムやビアズリーに影響を受けた画風で人気。



ジョルジュ・ルパップ(1887-1971)

ポール・ポワレに才能を見出された、ガゼット・デュ・ボン・トンの看板画家。
細長くしなやかに伸ばした体躯と、アンニュイな雰囲気を持つ独特の女性像が特徴。
のちにニューヨークへと活躍の場を広げる。


※本作は現在当店にてご覧いただけます

シャルル・マルタン(1884-1934)

上記3誌全てに寄稿したほか様々なグラフィック・アートの分野で活躍。
大胆な構図と極端なデフォルメ、さらにシャープな線を多用したスピード感溢れる画風。
軽快な動きのある明るい画面を得意とした。


※本作は現在当店にてご覧いただけます

 

アンドレ・E・マルティ(1882-1974)

前述3人に比べ、突出した強い個性はないものの、亜欧人種を混血したようなエキゾチックな顔立ちの女性を可憐でエレガントに描いた。
晩年に至るまで旺盛な創作意と高い技術力を保ち続けた画家。
彼らはファッション誌以外にも、ポスターや挿絵本をはじめ、あらゆるグラフィック・アートの領域で活躍しました。
例えば、マルタンは音楽家エリック・サティの歌曲に挿絵をあしらった『スポーツと気晴らし』やワイン販売大手ニコラ社が高級ワイン普及のために出版した書籍にも挿絵を提供。
このニコラ社は、画家デュフィにも依頼し挿絵本『モン・ドクトル・ル・ヴァン(私の医者、ワイン)』を制作しています。

今月の展示では、アール・デコの四天王イラストレーターのファッション・プレートをはじめ、同時代の作家が描いたモダンでシックな版画を多数お取り扱い。
また、マティス、ローランサン、デュフィ、イカールらが描いた1920年代の貴重なファッション画も展示・販売しております。
3/31(木)までの展示を是非お見逃しなく!

>ファッション・ジャーナリズムの歴史<前編>

(R・K)