ファッション・ジャーナリズムの歴史<前編>

こんにちは。
ブログをお読みいただきありがとうございます。

現在ギャルリー・アルマナック吉祥寺にて好評開催中の「パリ、アール・デコのファッション画展」。
テーマになっているアール・デコの時代とは、幾何学的なモチーフや直線的なラインのデザインが、ライフスタイル全般に波及した主に1920年代を指します。

特にファッションの分野では、パリのデザイナーたちが続々と革命的な流行を作り上げたこの時代。
しかし、「女性」と「ファッション」、そして「パリ」という三者の関係性は1920年代に始まったことではありません。

本日は、今なおファッションの発信地であり続けるパリ・モードがどのように形成され伝播していったのか、新聞や雑誌を媒介にするファッション・ジャーナリズムの観点から掘り下げていきます。
(参考文献:鹿島茂著『モダン・パリの装い』)


 
さて。ファッションに限らず「流行」が広く波及するためには、何らかの媒体が必要です。
テレビやインターネット、電話のない時代は、もちろん手紙や新聞、雑誌などの紙媒体が唯一の手段。
グーテンベルクが活版印刷を発明した15世紀以降、新聞や書籍の需要が徐々に高まっていきました。

ファッションの”今”を伝えるため定期刊行されたモード・ジャーナリズムの起源は、1778年よりフランス革命直前まで発行された『ギャルリ・デ・モード』と言われています。

マリー・アントワネット ギャルリ・デ・モード ギャルリ・デ・モード

絶対王政の時代において、モードや文化流行を意のままに操っていたのは、妃や王の妾、王女など当時権力を持っていた女性たち。
中でも高い注目を集めていた流行の発信源は、オーストリアからフランス王家に嫁いだ王妃マリー・アントワネットでした。
彼女のもとには、多くの仕立て屋や服飾品店が彼女に取り入ろうとし、アントワネットから「私のモード大臣」と呼ばれた服飾デザイナーであるローズ・ベルタンが次々生み出した流行スタイルは、美しいファッション・プレート(版画による最新流行服飾図)が添えられた『ギャルリ・デ・モード』の普及も手伝い、各国の宮廷女性から高い評判を得ることに。



しかし、1789年フランス革命が勃発!
豪華絢爛なロココファッションの反動から贅沢を敵とする清貧思想が流布。
必然的にモード・ジャーナリスムも一時的に衰退してしまいました。


 
そして、革命後の混乱が少し落ち着いた1797年。
奇しくもフランス革命勃発の1789年に生まれた二人の画家が後年活躍することになる、あるモード雑誌が創刊されました。
それが、革命により職を失った高校教師兼元修道会師のラ・メザンジェールという人物が友人と立ち上げた『ジュルナル・デ・ダム・エ・デ・モード』

『ジュルナル・デ・ダム・エ・デ・モード』

大革命によりモードの発信源であった王侯貴族は没落。
しかし、パリ郊外や地方に住む貴族や高級役人の婦人は文化の中心・パリに対する強烈な憧憬を持ち続けていたことと、郵便制度が格段に飛躍したことに目を付けたラ・メザンジェールは新しい読者層をパリ郊外の地方都市に開拓。
さらに、一流の画家にファッション・プレートを描かせることで雑誌に大きな付加価値を付け、『ジュルナル・デ・ダム・エ・デ・モード』は約40年続く人気雑誌に発展しました。
雑誌の繁栄に貢献した画家こそ、1789年生まれの二人オラース・ヴェルネとルイ=マリ・ランテです。 



ヴェルネ(1789-1863)

1810年頃より雑誌にモード・イラストを提供。
特にナポレオン帝政下で人気絶頂に。
正確で繊細な筆致が特徴。
普遍性を求める古典主義の文化を色濃く反映。


ランテ(1789-?)

ナポレオンが失脚した王政復古下で活躍した画家。
背景に風景を描く画風や、ややマンガ的な表現方法が特徴。
個性を重視するロマン主義文化の影響から多様性溢れる作品を残す。


 
政治や権力、さらに文化までもが流転する時代の潮目を巧みに読み取ったラ・メザンジェールの手腕により、『ジュルナル・デ・ダム・エ・デ・モード』は大成功を収めます。
しかし、この老舗ファッション誌にはモード批評がなかったことから、本当にお洒落好きな読者にとってはやや物足りない内容になっていたその頃・・・

ジラルダンという名の野心的な青年が登場します。
彼は『ジュルナル・デ・ダム・エ・デ・モード』に対抗して『ラ・モード』を創刊。
単に最新モードを紹介するだけでなく、”センスの良さ”を指導するという新しいコンセプトのモード新聞は、ガヴァルニという無名画家の登場により、モード・ジャーナリスム史に残る黄金時代を築きました。

『ラ・モード』

ガヴァルニ(1804-1866)

『ラ・モード』の黄金時代を築いた画家。
彼の描く可憐な少女は誰もが恋する時代のアイドルになるという文化現象が起きた。
若い少女をモデルにした繊細で優美な画風が特徴。


 
このようにモード・ジャーナリスムは、それぞれの時代における、
①モードのクリエイターとニーズになる読者層を的確に見抜き、雑誌を作る敏腕編集長(総合プロデューサー)
②超一流の腕を持つモード画家
③天才的な技巧を持つ彫り師と刷り師
が同時に現れない限り、傑出したファッション・プレートは生まれません。

それゆえ、ジラルダンが『ラ・モード』を売却してしまう1832年から1911年までの間、モード・ジャーナリスムは秀でた芸術性を持つ雑誌のないまま再び停滞。
(『ラ・モード』は1854年まで存続するも、売却以降二流の機関紙へと凋落)

突出した才能を持つ編集長やイラストレーターが再び登場するのはその後、80年を経て20世紀になってからのことでした。
後半編では、20世紀のファッション革命とモード・ジャーナリズムの復活をご紹介いたします!

(R・K)