東洋と西洋の自然観

こんにちは。
ブログをお読みいただきありがとうございます。

紅葉の美しい霜月。京都方面へのお出かけをお考えの方もいらっしゃるでしょうか。
ところで。

「そうだ 京都、行こう。」

この広告、皆さんご存知ですよね。
毎シーズン、京都にある神社仏閣の息をのむほどに美しいビジュアルとそこに添えられた短いコピーで私たちを引きこむJR東海のポスターです。

先日某新聞で、この京都キャンペーンを20年以上も手掛けているコピーライター、太田恵美さんの記事を拝見いたしました。
初回から現在まで136本のコピーをお1人で書かれているそうです。

(太田さんが書いたコピーの一例)
・人の成功、失敗、一二〇〇年ぶん。京都は勉強になります。(93年秋、平等院)
・そうか「考える時間」じゃなくて、「考える場所」がなかったんだ。(96年冬、八坂の塔)
・いい秋ですね、と言葉をかわしあえる。それだけで、うれしい。(11年秋、毘沙門堂)
・どの町の、どの桜が好きですか。おや、迷っていらっしゃる。どうぞ、ごゆっくり。(13年春、妙心寺退蔵院)
・紅葉が、宇宙や人生の話になってしまうとはね。(14年盛秋、源光庵)

とてもシンプルで平易な言葉ながらも、生命力溢れる京都の四季の自然と相まって毎度非常に深く心に刻まれる広告です。

太田さんはインタビュー記事でこう仰ってます。
「春に桜、夏に青葉、秋は紅葉、冬は雪化粧。四季を見て、聴いて、思索する仕組みが京都には何百年もかけて出来ている」

私たち日本人は昔から、自然と共生し、その折々の自然を愛でるといった風習を身につけているのですね。
ところかわって、西洋文化では「自然」はどういった存在だったのでしょう。

 

自然と人間が融合する東洋の考えとは対照的に、西洋文化の発想では、人間は自然の支配者。
それゆえ慣習的に、自然は人間より下にみなされてきました。
自然風景を描くことはあってもあくまでその主題は聖書や神話に基づくもの。(上の2作品は神話が題材)
西洋絵画のルールでは、ただ自然を写実的に描いた風景が主題になることはあり得なかったのです。

ところが19世紀の美術界。

伝統に飽き足らぬ革新的な芸術家たちが起こした自然主義の風潮により、それまで画題になり得なかったフランス国内の森や渓谷、田園風景などの自然が好んで描かれるようになりました。
1852年、パリと郊外を蒸すむ鉄道が開通したことも、この流行を後押ししました。

自然風景を直接観察し、自然と共生する人間に美しさを見出したバルビゾン派の姿勢。
日本人の感性に近いものがあるのかもしれませんね。

当店で今月開催中のバルビゾン派展。
自然と人間が穏やかに融合する寧静の世界をご覧に、どうぞお越しくださいませ。

ミレー「おやつ」
コロー「モルトフォンテーヌの想い出」
ミレー「落穂拾い」


(R・K)